「働き方改革」をめぐり世の中で起きているいろんなことについて、ふと考えてしまうことがあります。
目次
サッカーの選手で考えてみる
たとえば、あるプロサッカーチームのレギュラーだったA選手が試合中に怪我をしたとします。
A選手の治療に要する費用や期間は契約によって守られているかと思います。
ところが、A選手の治療期間中に控えだったB選手が活躍してA選手を越える評価を得たとします。
A選手が怪我から復帰しても、残念ながら元のポジションには戻れないでしょう。
別のポジションに移るか、元のポジションに拘るならB選手を越える努力をして奪い返すか、あるいはそのポジションで自分を必要としてくれる他のチームに移籍するしかないと思います。
たとえそれが怪我という不運な出来事に起因したことであっても、これが厳しい現実です。
サラリーマンの世界も同じ
サラリーマンの世界も同じではないかなと思います。
「働き方改革」は過度な労働を防ぎ健康を守り、プライベートにおける多様な事情と仕事を両立させるためのものですが、組織における居場所の確保を保障するものではないと思います。
勘違いしてはいけないのは、誰もが自分のやりたい仕事、ポジションに希望すれば就けるものではありません。
希望を叶えるためには相応の努力をし、結果を出し、時に競争に勝ち抜かなくてはいけません。現実問題としてそこには一定の自己犠牲も必要になってくるかと思います。
ちなみに、結果とは目の前の成果だけではなく、組織として人として多様な事情をお互いに守り(譲り)合い、先を見て後進を育てることも含まれます。目の前の成果などはむしろ小さな要素です。
必要な仕事、限られたポジションに、組織がより優れた人材を恒常的に配置したいのは当然なことです。(令和では人だけではなくAIも候補に加わるかもしれませんね)
そして、誰が相応しいかを決定するのは組織であり、「働き方改革」が守ってくれる対象ではありません。
自分より相応しいと評価される人(or物)が現れたなら、その仕事、ポジションを明け渡すしかないしょう。
そうなりたくないなら日々何をすべきかです。
結局のところ、プライベートにおける多様な事情と相反する自己犠牲の許容バランスの中で、それぞれが何を優先するかをはっきりさせて、その結果何を得て、何を失うかを自覚すること、それがプライベートと仕事を両立する、組織で働くということではないかなと思うのです。
もし、誰もがやりたい仕事をしたい時にだけして、希望するポジションがいつでも空いている、そんな夢のような組織を求めるなら自分で起業するしかないでしょう。
それこそ自己犠牲と責任を最大に背負うことにはなると思いますけど。
「働き方改革」に危惧すること
「働き方改革」の主旨には賛同しますが、それが本当に必要な人たちのためにあることを切に願います。
ともすれば、ゆるい人たちをさらに甘やかす道具となり、ギリギリの人たちがさらに負荷を追う結果になってしまわないかと危惧します。
誰かが権利を主張する裏側で、その犠牲は確実に誰かが背負っている・・・(現実として)
というわけで、AI開発の絶対的な意味もわかってきたような気がします。
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Danke schön und Auf Wiedersehen / Thanks and See you
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